更新:2018/08/03

唐沢洞にリニア残土

 やるきまんまんの高森町町長、壬生照玄氏は、小学校と中学校の間に道路を造って行き来を便利にするよとかなんとか、小学生のお友達に、お約束をしたらしいです。高森町役場や中学校のある地区と、小学校や民俗資料館のある地区の間に、唐沢洞という谷があります。十数年まえ吉川町長の時代にこの谷を埋めて町の中心部を整備しようという計画がありましたが、谷の下流直下に集落があり、また1961年の三六災害で土石流の被害も出していることから、住民の猛反対にあって中止になりました。そこをリニアの残土で埋めようというのが壬生町長のアイデア。これを聞いた人の多くは、あきれています。「やるんなら、町長さん、命がけでやりなんよ」なんて声もでているほど・・・。


(説明付き拡大写真) 天竜川左岸、上流部に130万立米の残土処分場の計画のある虻川河口から見た高森町。段丘の中央の小さな谷が唐沢洞。色の濃い丘のような部分は河岸段丘です。断層運動でできた段丘です。壬生町長は「美しい河岸段丘を・・・」と言っていたはず。「・・・」って、美しい景観をダメにするってことか。


地理院地図。単純化して、谷の出口の断面積と奥行きをかけて3分の一にすると容積は約28万立米。それでも15~20万立米くらいは残土が積めるでしょうか。

 右岸にわたって地図の 1 から見たのが次の写真。


積善会館前から


積善会館(後ろの建物)は避難場所


ハザードマップ。青い扇型は今現在の状態で豪雨や地震などで唐沢洞で土砂災害が起きた時の被害の想定範囲。残土を置いてもこの避難場所は安全なのか?

 扇型の端のほうにあたる 2 から見たのが次の写真。


谷の出口に集落があります。


地図の 3 から。フェンスの左側を谷からの水が流れています。


地図の 4 から。右は金毘羅様と秋葉様。道路左に水の流れ。


地図の 5 から。谷の出口には小学生の通学路があります。土石流が来るとすれば、画面の右から左へ流れます。


地図の 6 から上流を見たところ。


地図の 6 から小学校のある側の橋。橋の奥に蚕玉様。昔はこの橋を渡って小学校に通学していました。


地図の 6 から役場のある側の中学生の通学路。通称「ゼット坂」。右に家があります。一番上流の家です。


「ゼット坂」を少し上った、地図の 7 から。谷の出口に家があります。「ゼット坂」のすぐ右に高さ約30mのダムのような擁壁を造って残土を置けば約28万立米は入るでしょう。しかし、そんなことできますか?


谷を少し上がって見返したところ。

 下から上へのぼっていきます。写真を撮った日付は2種類なのですが、ようは下から順番に並べました。




水の取り入れ口の水神様。


鳥居の右の柱の後ろの石は金毘羅様。左はもう文字が読めません。


ウメ


カキ


最近、竹藪や斜面の整備をしたようです。以前はもっとうっそうとしていました。


残土の置き場の候補地を案内すると、水が流れていることに驚く人もいます。当たり前なんですが、こうして流れている水、地下水があるので、谷に残土を埋めるのは非常に危険なのです。どうも都会の人たちは谷には水が流れていない谷があると思っているようです。



なんか、変な音が聞こえました。動物の鳴き声だと思いましたが、取水口の音でした。




これは下流を向いて撮りました。


谷の最上部。地図の 8 。左の盛土は町の駐車場。


盛土の下の方は、針金で編んだカゴに石を詰めたもの(布団篭)で補強しているようです。画面左下の方、次の写真です。


水が流れています。下が盛土側。


地図 9 から。左のオレンジ色の建物は中学校。


地図の 10 から西方向を見たところ。1961年の三六災害ではこの辺りはまるで河原のようになっていました。三叉路の辺りに土橋があったのですが、流されました。当日、当時小学生だった私たちは荒れる少し前にここを通って帰宅しました。谷下の通学路に行くには校庭を横切るのですが、その日は校庭全体が水につかって小学生では横切ることができませんでした。左の駐車場が盛土造成されています。


『36災害20周年記念 災害の記録』(高森町、1981年6月28日刊、p7)掲載の航空写真より。10 の場所は当時の記憶とは少し違うようにも思えますが、唐沢洞の下半分で被害の出ているのが分かります。画面左、小学校のグランドの下に2ヶ所の斜面崩落が見えます。この写真で「ゼット坂」の由来がよく分かりますね。役場や中学校の位置は今とは違います。


『同』書から唐沢洞の被害状況。


地図 12 から。中学校前から下流方向を見たところ。


地図 13 から。ゼット坂へのおり口から上流方向を見たところ。

 壬生町長は、1970年の生まれですから、36災害を知らないのは無理はない。役場に就職したのが、1994年。唐沢洞の最初の埋め立て計画が持ち上がったのが2004年。住民の声で潰れたのが2005年。だから、役場の横にある唐沢洞のことなのですから、忘れてしまったのか。ここに残土を置くと言えば住民からどんな反発が出るか想像できるだろうと思うのです。私の周辺の大方の人たちはそう思ってあきれているのです。

 ここの危険の度合いは、豊丘の源道地の2つの沢よりはるかに深刻です。リニア推進派の人って、どっかネジが外れてるんじゃありませんか?