更新:2019/05/29

大井川流域8市2町と静岡県をみならうべき

 リニアの南アルプストンネルは大井川の上流部を掘削します。大井川本流と支流の西俣川の直下を貫きます。


(「リニア中央新幹線整備に係る大井川の水資源減少問題の概要 平成30年8月 静岡県」より。静岡県の県名記入は引用者。)

 JR東海は、大井川で毎秒2トンの減水がおきると予測しました。主にその点について静岡県と協議をしていますが、同意は得られず、まだまだトンネル工事は着工に至っていません。静岡新聞に次の記事がのりました。

 記事は、静岡新聞社が大井川の水を利用している県内の8市2町の首長に、JR東海の対応や県とJR東海との協議についてどのように受け止めているか聞き取ったものです。

 「8市2町」は、川根本町、藤枝市、島田市、焼津市、掛川市、吉田町、牧之原市、菊川市、袋井市、御前崎市。静岡県の作った資料「リニア中央新幹線整備に係る大井川の水資源減少問題の概要 平成30年8月」で、静岡県内で大井川の水がどのように利用されているかわかります。(補足 2019/07/11 Wayback Machine に キャッシュがありました)

 建設について理解を示す首長もいたとしています。袋井市長は「国全体として考えるならリニアは必要だ」といったようです。しかし、「JRは、地域の人を納得させるプロセスをきちんと踏むべきだ」といっている。

 静岡県内はすべてトンネルのリニアです。中間駅ができる他県と比べると、リニア新幹線の完成後に直接に得られる経済的な効果はないといえます。地域に利益がないとすれば、住民の利益を損ねるような工事計画に「ちょっとまて」というのが県や自治体の本来のあり方です。

 赤石山地を越えた長野県では、長野県も沿線市町村もリニアが来れば御利益があると思っているから、リニアのメリットを生かして、デメリットを極力減らすといいつつ、結局は、デメリットに目をつぶっているわけです。リニアの効果が期待できなければ、静岡県、それから大井川流域の8市2町の首長の態度や姿勢が当たり前のありかたなのだと思います。

 大鹿村の鳶ヶ巣崩壊地の直下の小渋川の川岸にトンネル残土を積み上げる計画があります。これは、JR東海が費用を負担した第三者の立場の専門家の検討委員会も同意できないような危険な計画。このアイデアは誰が言い出したのかとの質問が大鹿村の行政懇談会で住民からだされたそうです。長尾副村長は「村です」と回答( ⇒ 南アルプスモニター:5月25日:「水が枯れたらどうするの?」行政懇談会 )。残土処分に困っているJR東海にゴマすっても大鹿村には県道のトンネルができた以上のリニア効果はないはず。もう実際に被害が出始めているのに。取るものとったら、態度をかえれば良いのに。

 豊丘村もリニア推進のために、奥山の谷に150万立米(本山と下沢)ものトンネル残土を置こうと、やっきになっています。1961年の三六災害で、虻川下流では、上流から多量の土砂が流れてきて、橋が流れを塞き止めるので、爆破してしまおうという話がでたほどだったといいます。三六災害の後で河川は改修されましたが、動きやすい残土を上流の谷に150万立米も埋め立てることなど想定したものではないはず。さらに、ダンプカーや工事関係車両が村内を縦横無尽に走り回る可能性も。

 喬木村や高森町では広大な優良農地をガイドウェイヤード組立ヤードにするために潰します。高森町ではリニア工事車両の通行の便宜のために町道を拡幅しますが、集落内の生活道路であり住民の迷惑、危険を顧みないものです。

 上郷北条や座光寺ではリニア路線、駅周辺整備で多数の移転対象者があるのに、その移転先もまだ見通しも十分とは言えない状況です。移転者の代替地よりリニア関連のアリーナやコンベンションの候補地選びの方が優先されています。

 さて、地域にリニアの効果がないとすれば、長野県南部の自治体、長野県のリニア建設に対する態度は、全くの非常識といえると思います。1日利用客6800人という数字が象徴するリニアの効果です。6800人の根拠もきちんと説明できない行政当局のいうリニアの効果には期待できません。誰もこの数字を妥当なものと評価できないから、行政も説明できないのでしょう。

 地域づくりに地道に取り組む人たちは、行政の態度を「リニア任せ」と評しています。つまり、具体的な地域づくりのアイデアがないから、中央から垂れ下がってくる、その時々のアイデアにすがりついているように見えるのだと思います。伊那谷住民の悲願とはいってみても、1970年代から誘致に頑張って来たとかいってみても、リニアが垂れ下がって来たアイデアに違いありません。

 リニアルート決定の過程でちょっと問題になった恒川官衙遺跡群(古代律令時代の地方事務所)。「古くから中央と当地域が結びつきがあった証拠」として珍重する雰囲気があります。


(飯田市:国指定史跡 恒川官衙遺跡(ごんがかんがいせき)恒川官衙遺跡パンフレット)あるいは、「中央政権との密接な関連」。律令時代でも中央政権はかなり広大な範囲を支配下にしていたので、全国的にみれば、そんなに珍しいものではないようです。あるいは、「中央にとっていかに大切な地であったかを示す」など。

 それは、昔からお国のお役にたってきた、裏返せば、中央の言うことをよく聞いてきた、中央にすがりついてやってきたというだけのことであって、地域の誇りでもなんでもないと思います。学術的に価値は認めるとしても、現代に生きる伊那谷住民の気持ちを鼓舞するようなものじゃないと思います。

 蛇足:恒川(ごんが)は郡衙(ぐんが=古代の地方事務所)から変化した言葉だと思います。恒川官衙遺跡と呼ぶようになったのは最近だと思います。これでは「郡衙官衙」となり、「いにしえの昔の武士の侍が、馬から落ちて落馬して、女の婦人に笑われて、赤い顔して赤面し、腹を切って切腹した」といっているのに近いのです。なお、「伊那郡衙」とという呼び方もあるようです。

 蛇足2:中央との密接なつながりを示すものとしては、例えばこんなものもありますね。


左上・御真影を納めていた奉安殿。右上・奉安殿を平和殿に改めたいわれの石碑。左下・戦没者氏名と満蒙開拓犠牲者氏名。右下・「戦勝」記念を「従軍」記念に書き換えた石碑。右の石碑は日清戦争から大東亜戦争までの戦没者氏名。右下(別府・護老神社)以外は上郷公民館そば。