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更新:2022/08/20、08/22補足、08/23一部改訂と補足、08/24補足、08/25 JR東海方式でズルズル訂正補足を繰り返しています(画像を追加)

「それでも足りない 電車気分」

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今年の灯籠流し大煙火大会の案内チラシ。裏面寄付者一覧には「JR東海」の名前も見えます。主催が変わったので町長のあいさつものっています。

 「市田灯ろう流し花火大会」はコロナの流行で、2020年と2021年は、従来の灯籠でなく簡易なものを流すだけで終わりました。花火は寄付集めなど準備作業ができないので中止となりました。

 今年、2022年は、自治会で話し合って、今後は花火大会は行わないことを決定しました。理由は多くの時間がかかることや、労力奉仕など住民の負担が大きすぎることから、数十年前から止めて欲しいという声があったからです。また、ご寄付をいただいていたかたがた、特に事業者のかたたちの中にはコロナ禍で事業不振ということ、また近年の傾向として、小規模の小売店さんなどの事業者が減少傾向にあることも理由の一つです。伝統の…という声もなかったわけではありませんが、自治会の議決機関とされる常会長会で、花火は今後は行わないという決定をしました。灯籠流しについては21年と同様に簡単なもの(既製品)を流しました。

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(撮影2022年8月18日)水に溶ける紙皿と行灯部分。行灯内には小ローソクが立ててあります。

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2006年ころの灯籠。イカダは麦わらです。2000年頃までは棒(桑の枝)を三角に組んだ部分に灯籠を被せて流していました。この写真の頃は切子灯籠をのせる代わりに、和紙でつくった「たすき」に仏像や蓮の花のハンコを押して約250基を流していました。大正時代、初期のものは、切子灯籠を吊るしたようなので、この写真のものとイカダが違うと思います。

 伝統の…というかたもいましたが、世間は省エネで照明はLEDの時代に「でんとう」などといっても、という冗談はともかく、その伝統というのは、つまりことの起こりはどこにあるのか、住民の間でも確たる伝承はないように思いました(参考)。

 高森町のホームぺージによれば、「JR飯田線の開通した年に始まりました」となっています。まさか、「JR飯田線が開通した年」=1987年ではないはずです。せめて、JR飯田線の前身の伊那電気鉄道(伊那電)が開通した年、くらいのことは書いてほしいと思いますね。伊那電が飯田駅までの営業を開始したのは、1923年の8月はじめでした。

 高森町のページには、そして、どういうきっかけで始まったのかは書いてないです。そこで、古い新聞を調べてみました。

 『南信新聞』、『南信州新聞』ではなく、明治時代からあった『南信新聞』を調べてみました。

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 1925年8月16日の紙面に「明十七日夜挙行(何人も参加随意) 盆供養と灯籠流し 市田村出砂原 天竜川にて(電車五割引き) 本社主催」という社告がのっていました。

 同じページの「精霊を慰める為 灯籠流しを 本社主催で十七日夜 市田の出砂原 天竜川で 電車は往復五割引」という見出しの記事につぎのように書いてあります。要約すると:

 娘さんを昨年亡くした市内に住む加藤庄三郎さんは新盆見舞いの客に天井から吊るされた沢山の切子灯ろうを見あげながら「飯田町(飯田市の旧市内)だけでも新盆の家に飾られる切子灯ろうの数は何百と沢山あるだろう。これらを集めて、昔京都の御所で行われたように灯をともして天竜川に流せば優雅な年中行事となるだろうし、みたまを慰めることにもなるし、始末しなくてはならない切子灯ろうも上品にかつ有意義に片付けることができると思う」と語った。この話を聞き本社は大変結構な意見だと思った。この風流なアイデアを年中行事の一つにしたいと思う。そこで、とりあえず別に掲載した社告のとおり明日17日の夕方7時から夕涼みの場所である市田村(高森町)の出砂原(ださら)の明神橋付近で天竜川に数百の灯ろうを流すことを決めた。急な試みだが、さいわい、飯田駅や桜町駅から市田駅の間は毎夕6時から5割引きの往復納涼キップが販売されているのは、見物の皆さんにとってうれしい話だ。(原文)

 伊那電が飯田駅まで開業したのは1923年の8月5日でした。この年、8月13日から16日まで「納涼電車」が運転されました。8月16日の『南信新聞』は「黒山の如き群衆 飯田駅に蝟集 特発電車をドシドシ発車 それでも足りない 電車気分 恐ろしい混雑」という見出しの記事をのせています。

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『南信新聞』1923年(大正12年)8月16日

 切子灯ろうが当時かなり流行していた様子について、灯籠流しの始まった1925年8月6日の紙面に「止めて止まらぬ 新盆の切子灯籠」という記事が掲載されています。

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『南信新聞』1925年(大正14年)8月6日

 記事の要旨は:

新盆の家庭では新仏を迎えるために8月に入ると軒に灯ろうを吊ってお盆まで毎夜灯をともす。新盆の家庭をめぐる親戚や知人は新盆見舞いとして切子灯ろうを持っていくのが恒例とされ、派手を競う家庭では灯ろうが沢山あるほど名誉のように思ったものだったが、近年、飯田町役場はこの切子灯ろうは極めて不経済なものでわずか十数日軒や座敷に吊ったあとは燈明料を添えて寺院に納めなくてはならないし、綺麗だからといっていつまでも置くわけにもいかない。長い伝統だが新盆見舞いのやり取りは大して意味のない虚礼と、廃止を呼びかけたので、切子灯ろうの売れ行きは、今年は昨年ほどではないが、中流以上の階級ではあいかわらず行われている。

 最後はゴミになるんだからムダじゃないですかという意見がけっこうあったということでしょう。

 1925年の8月2日の『南信新聞』紙面には、「蒸し暑い夏の一夜を電車に運ばれて市田村出砂原納涼園に遊ぶ事もホントウに町に居ては味わえない気分だ」と出砂原が夕涼みの場所と紹介されています。「肌身に寒さを…」という記事のなかで「水神橋」となっているのは、おそらく「明神橋」。

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 第一回目の灯籠流しは8月17日の予定でしたが8月20日の『南信新聞』は18日午後7時から行われたと報じています。飯田の正永寺と西教寺、市田の安養寺の住職が出張、出砂原商工会の人たちに感謝すると書いています。

 2022年、出砂原自治会としては花火大会は今後行わないという決定をしましたが、高森町の壬生町長は町として続けたいということで、今年は企業などに寄付を募り、総額数百万円(出砂原自治会が主体でやってた頃の約4割)を集めたそうです。商工会の有志がサプライズ花火としてうった2020年や20221年よりは大きな規模の花火を「第99回 市田灯籠流し煙火大会」として打ちました。

 さて、1925年が第1回なので、2022年の今年は第98回になるはずですね。

 イベントのもともとの始まりのいきさつがわかっておれば、こういうマチガイはないはずです。

 出砂原自治会も構成がだんだん変化してきました。昭和40年代までは、商店街が栄えていましたから、最初に協力した商工会の力もありました。しかし集落内の商工業者が減って、サラリーマン世帯が中心になっても、大変なのに、止めることができずにここまで来たのでした。産業的、経済的な基盤がないのに続けて来たのです。コロナ禍で2年中止となってみれば、もう住民にやる気はありません。

 漏れ聞くところでは、町長は高森町仏教会で自治会長だけが花火に反対しているといったとか。実は常会長はほぼ全員が花火の継続に反対で、自治会長はむしろ判断しかねているという感じなのですが、町長は何を考えているんでしょうか?

 壬生町長の1期目の町政懇談会で、町から援助や協力を得ているけれど、町が中心になって灯籠流し花火大会をやって欲しいという意見が住民から出た時、町長は住民がやる気がないなら町も協力はできないと回答。自治会がもうやめると決めたとたんに、町が続けるというのはどういうことなのかと思います。

 リニア関連の道路拡幅工事で、灯籠流しの会場の明神橋付近に往時の姿を示すものはほとんどなくなりました。出砂原は、大正末期、伊那電が飯田まで開業した当時の納涼の地ではもはやありません。

 なお『南信新聞』は創刊が1902年、1939年8月に、『信濃時事』、『信濃大衆新聞』と合併して『信州合同新聞』となり、1942年に新聞統合により、『信濃毎日新聞』に合併しました。日中戦争から太平洋戦争の時期に灯ろう流しが行われたのか中止されたのか、また、最初の主催者が消滅したようなものですから、最近まで続いた灯籠流しがどういうきっかけで始まったのか、続けられたのか、そのへんのことは、まだ分かりません。

 戦争中はやらなかったという話は聞いたことがあるので、どちらにしても、今年が第99回ということはあり得ない。時又は、昭和4年から始まったとされますが、今年は第45回です。

 しかし、天竜川の急流で灯籠を流すのはかなり難しいことです。しかも切子灯籠のような大きなものを乗せるイカダは、都会で行われるような板では間に合いません。なかに灯す火もローソクではなく野球ボールほどの大きさの石油玉です。伝統とは行っても、明治以前、江戸時代以前から行われてきたものではないはずです。また花火は、1回目にはなく、2回目の1926年(大正15年)に花火を打ったとあり、1930年が数十発、1931年は十数発など『南信新聞』は書いています。ほかに明神橋に「イルミネーション」(*)を施したようで、余興として子ども角力や盆踊りが行われたようです。

* 出砂原自治会編『出砂原のあゆみ』1998年3月、p22に写真あり。


参考

 8月分の紙面を調べた範囲では、1925年~1931年まで『南信新聞』に燈籠流しの記事が掲載されているのが確認できました。1932年と1933年は飯田市中央図書館の端末に8月分のデータがありません。1934年~1936年は掲載されており、1936年の記事には第12回と書かれています。1937年以後は掲載はありません(1939年からは『信州合同新聞』(1942年4月まで)になりますが掲載なし)。1934年の記事では「第8回」となっていますが、10回目のはずで誤記と思われます。

 『南信新聞』で、花火(煙火)というコトバが出てくるのは1927年の第3回の「夕刻煙火が…」からです。1928年に「煙火打上」、1929年に「数十発」、1930年に「十数発」、1934年に「納涼花火大会」、1935年に「打上花火」、1936年に「煙火」の文字がありますが、現在のような花火が主ではなくて、灯籠流しが主であったようです。最近は花火大会が主でした。今年の様子をみても、花火大会の案内があったことで、観客の数は、2020年と2021年より多かったと思います。余興として、子供相撲、盆踊り、活動写真公開(1928年)が行われたようです。

 イカダの大きさについて、長さ1間(約1.8m)に3~4個の切子灯籠を吊るす(1926年)、とか、4尺(約1.2m)かける3間(約5.4m)に数十の提灯などかかれており、ここ50年から60年の間の物(3枚目の写真)よりは大型のものだったのではないかと思います。最近は、既製品(* 2枚目の写真)を流したこの3年を除いて、灯ろうはすべて回収して焼却処分をしていましたが、初期はどうも流しっぱなしだったのではないかとの印象を受けました。市田より下流の天竜川の本流にダムがなかった時代です(泰阜ダムは1931年着工、1935年完成)。

 飯田駅前に集まった切子灯ろうは伊那電の定期列車の後部に貨車を連結して市田駅まで運んだと『南信新聞』は書いています。

* 水に溶ける紙灯篭。使った灯ろうのメーカーがどこか不明ですが、「こういうもの」。天竜川の流れと風の強さから、石材の切れ端を使ったオモリを加えています。このオモリを船となる皿に接着するのにシリコンのシーラントを使っているし、波が荒いのでローソクが燃え尽きる前に灯ろうは転覆するので石油製品であるローソクも海まで流れていきます。完全に環境にやさしいということではありません。流すより大変な回収する手間が確保できないのです。いずれは灯ろう流しも止めなくてはならないのではないかと思います。

 大正デモクラシーの時代から戦争の昭和の時代になって納涼をかねた灯籠流しというイベントを楽しむ気分でなくなったということもあったのではないかと思います。今年、主体となって行ってきた地域の住民自治組織がもはやこれまでと決めたのは、現在が昔と同じような困難な時代になっていることが背景にあると考えた方が良いと思います。ましてリニアなんかに浮かれておれる時代じゃないです。

 また、人々の感覚として、昔は、飯田駅と市田駅、距離で8㎞の空間が現在よりはずっと広かったのだろうと思います。

記事原文

昨年その愛嬢をふと喪った市内加藤庄三郎氏は哀愁のまた新たなうちにも淋しい笑顔しい笑顔で見舞の客を迎え『想い着いたことだが』と天井に吊るされた沢山の切子燈籠の美しい姿を見あげながら『飯田町だけでも新盆の家に飾られる切子燈籠の数は何百という沢山のものであるがこの燈籠を集め灯をともして水の清い天龍川の上流から昔京都の御所で行われたやうに燈籠流しを行ったら優雅な年中行事ともなり精霊を慰める唯一の方法でもあり切子燈籠も完全に綺麗に始末され廃物利用の目的も高尚に有意義にされるわけだと思ふ』と感想を語ったが至極結構な意見であると共にどうかみやびなこの韻事を年中行事の一つに加へたいと発念した本社は、取敢えず別項社告の如く明十七日(月曜日)の晩七時から納涼の地の市田村出砂原の明神橋付近で天龍川の川下めがけて数百の燈籠流しを決行することになった、咄嗟の試みではあるが幸い飯田駅桜町駅より市田駅間は毎夕六時から五割引の往復割引納涼券を発行している故見物の人々に取っては福音というべきであろう…

『出砂原のあゆみ』

 1998年に出砂原自治会が刊行した『出砂原のあゆみ』は住民の寄稿や、以前に発刊されたものからの転載や、古老からの聞き取りなどを集め編集ものです。『出砂原のあゆみ』のなかで、灯ろう流しの始まった時期についてどのように書かれているか:

 と、つまり、『出砂原のあゆみ』を見る限り、いいかえると住民の記憶に頼る限りは、始まった時期については諸説あり確かでないというしかないです。このころはまだ飯田中央図書館に郷土の古い新聞を手軽に参照できる端末はなかったと思うので、記憶違いが訂正されていなくても無理ないことだったと思います。

 それにしても、高森町の公式ホームページの「JR飯田線の開通した年に始まりました」という記述はいかにも調査不足といえます。

 「前例踏襲」の町役場が、最近の花火大会の番付を根拠にすることがあったかも知れません。例えば、2014年(平成26年)は「第91回」になっているので、2022年は「第99回」になります。回数の間違いの原因の責任は出砂原自治会にあると。しかし、今後は町が中心になってやっていくなら「きちんとやれよ」ということじゃないかと思うのです。なんでもよいから「にぎやかし」が必要というのは、「パンとサーカス」のサーカスだと思います。

「市田灯籠流し今昔」

 (2022/08/24 補足)高森町の観光情報のページに「市田灯籠流し今昔」という文書(PDF)があります。灯ろう流しに直接関わっている住民のかたがかかれたものです。灯ろう流しのおこりについての記述は、執筆者も推測する部分もあるとしているように、正確とは言えないようですが、灯ろうを製作する過程が分かりやすく説明してあります。また飯田市時又の灯ろう流しの灯ろうについても説明があります。こちらは灯ろうを「吊るして」流す方式です。"2021年度市田灯籠流し・川施餓鬼法要 (PDFファイル: 515.8KB)" は2021年の様子です。

1998年の灯ろう

 手元に1998年の灯ろう流しのスナップ写真がありました。市田と時又の灯ろう流しのイカダ(灯ろう)の違いがわかりますか。市田の左上の写真の左のほうににある灯ろうはこのイカダ上に新盆で飾られた切子灯ろうや行灯をのせたもの。木枠のイカダにのせたものは、最初に流したのではないかと思います。その右(右上も同じ)は最後に流す大型の灯ろう。イカダの部分はこれも麦わらです。下2枚は大型のイカダを流す様子です。基本は点火してから浮かべていましたが、大型の場合は浮かべてから点火しました。

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[ 拡大 ] 8月18日。市田(出砂原)は基本はイカダにのせるタイプ。このころは、流した灯ろうはすべて引き揚げてから焼却していました。

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[ 拡大 ] おそらく8月16日。時又は吊るすタイプ。

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