更新:2023/07/10

今年の「市田港灯ろう流し大煙火大会」は第99回

 昨年8月に掲載した「それでも足りない 電車気分」について最近の情勢を含めてまとめました。

 高森町の出砂原地区で8月18日に例年行われてきた「市田港灯ろう流し大煙火大会」のそもそもの始まりは、1925年8月に当時飯田市にあった『南信新聞』社(明治35年創刊)が主催して始めたものでした。当時の「社告」(『南信新聞』大正14年(1925年)8月16日3面)は信濃毎日新聞のデータベースで読めます。灯ろう流しと同時に行われる川施餓鬼という行事は明治時代からあったという記録が寺院にあるようですが、現在につながる灯ろう流しという行事は1925年8月に始まったと考えて間違いないといえます。

 もし今年、灯ろう流し花火大会を行うとすれば第99回となるはずです。ところが、出砂原自治会が廃止を決め、「町が引き取って」、町観光協会が商工会やボランティアを集めた実行委員会でおこなうという、今年(2023年)の灯ろう流し花火大会は第100回の記念すべき大会として寄付金集めや宣伝がされています。

 出砂原自治会が主催で行った最後の年、昨年、2022年は灯ろう流しのみ行ったのですが、その反省会で次回は第100回ではないという指摘はしておきました。町の職員も同席していたはずです。また、飯田線開通百年という年であったため、郷土史を研究するグループでもこのことは話題にのぼっていたようです。

 観光協会の事務局に7月10日に電話で確認すると、第1回が行われたのは大正12年で、花火が行われていなくても灯ろう流しだけ行われたものは1回と数えると100回になるとの説明でした。

 灯ろう流し花火大会は、灯ろう流しが先で花火は「余興」として数年後から始まったという経緯がありました。また日中戦争から太平洋戦争の時期に行われなくなり、主催者であった『南信新聞』最終的に1942年の新聞統合で『信濃毎日新聞』となり、戦後の1948年ころに出砂原の商工会や自治会が復活させたものです。いずれにしても中断期間を含み、復活当時かそれ以降かに回数を数え間違えてしまったということなのです。花火の番付には最近は第何回と書かれていますが、以前は書かれていなかったという事情があったからかもしれません。

 1年の猶予があったこと、主催者が変わったのですから、この機会に、その経緯を調べ、回数をリセットすれば良かったのです。

 主催者が変わったということについては、出砂原というところは、大正から昭和40年代までは町の商業の中心地で商店以外にもいろいろな事業者がいたのですが、車の普及とともに衰え、一時期は400世帯以上あった自治会は現在は120世帯ほどに激減しているだけでなく、ほとんど世帯が勤労者ですから、これだけの行事を担うのは住民としては大変なことでした。新たに地区の周縁部に家を建てられた方で、この行事があることを理由に、自治会は隣の別の自治会に加入するということさえあったほどです。

 町は確かに補助金を出し、職員も手伝うことはしてきました。数年前、現壬生町長が一期目の町政懇談会だったか(それ以前、彼が企画課長の時代だったかも知れませんが)、ある住民が、町が主体でやってくれないかと意見を述べると、それに対し、住民にやる気がないのに町が代わってやることはないといいました。

 ところが、昨年、出砂原自治会が常会長会で花火の今後の廃止を決めると、町長が町で引き受けると言いだしました。観光協会の事務局は継続は出砂原以外の町民全体の気持でもあるといっています。

 この行事については、対岸の豊丘村の田村地区にも長年多大の迷惑をかけて来たし、町内他地区の住民にも警備や協力金などでご苦労をかけて来たということもありました。

 地区の社会経済的な背景が変わって、継続が困難となった行事を続けることは住民にとって意味があるとはいえません。伝統、伝統と言いますが今はLEDの時代です。全く新しい視点で、今後川辺のにぎわいの中心として企画されている「かわまち」予定地付近を中心に、スタイルを一新した形で花火大会は行えるはずです。それまで数年の我慢が出来ない住民ではないでしょうし、昨今の経済や社会の成り行きは、はたして、そういうイベントよりはもっと備えなければならないことがあるのではないかと思います。

 灯ろう流しについては、実行委員会の一員として出砂原自治会が行うようです。費用については町から補助金が出るそうですが、名目をどう合理化しているか知りませんが、実質的に、宗教行事に公金を出すわけです。また、僧侶の読経の場所(川施餓鬼の場所)の準備も自治会が行うような性格の行事であり、その余興として始まって大きくなったのが花火大会です。住民の自治会が担えないのですから、町が引き受けるというやり方は非常にまずいやり方だったと思います。

 いわれに疑義があって訂正すべき部分があり指摘もなかったわけでないのに、行政のメンツで正さないというのは、まずい。リニア計画の沿線自治体の受入れの姿勢にも同じような部分が見えます。

 なお、出砂原地区の歴史をまとめた『出砂原のあゆみ』(1998年)には「はじまり」について、3つの記述があって、1つは、飯田線(伊那電)開通の年としていますが、あとの2つは開通よりあとの年だったとしています。